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祖父を見送って感じたこと

やけやま不動産、代表の甲斐です。

先日、98歳の祖父が老衰で亡くなり、通夜葬儀参列のため、九州に帰省しました。

大正生まれの祖父は、戦争を経験し、結婚し、子供を3人育て、晩年は畑仕事に熱中して、亡くなる前は10年以上施設で過ごしてきました。

私にとっては、相撲好き、甘いもの好き、優しいじいちゃんという印象でしかなかったのですが、通夜葬儀の合間に聞く祖父についての話は、私が感じていたイメージとはまた別の、苦労や苦難の人生であったことがわかりました。

戦前、戦中の日本は、家制度が色濃く、特に九州の田舎ですので、祖父は、バリバリの実家長男至上主義というような価値観の中に生まれたようでした。

10人兄弟の9番目であったため、先に生まれた兄姉の子たちと、それほど歳が違わず、甥っ子、姪っ子たちと一緒に小学校に通っていたようです。

「長子相続」、私有財産ではなく「家産」という価値観を疑いもせず、郵便局で働いていた給料は全て実家に入れていたようです。

そうして戦争に招集され、当時としては長身で容姿端麗、健康優良であった祖父は、憲兵隊に所属し台湾に派遣されましたが、終戦を迎え、実家に帰省したようです。

戦争中の写真は、刀を持って、長ブーツを履いて、憲兵の腕章をつけ、台湾の山中で撮られた写真が一枚残っています。

憲兵は、兵隊さんの規律を守る役割で、華やかな印象ではありますが、戦後は「公職追放令」にかかり、当時は公職であった郵便局の仕事を離れざるを得なくなったようです。

そして25歳の頃、長女であった祖母と結婚し、祖母の実家を継ぐ地位で養子に入ったのですが、その後祖母の実家に長男が産まれたために、近くに分家として出て、小さな家を建てたようです。

10人兄弟の9番目、養子として結婚し、さらに分家となる状況を想像すると、それほど資産は持たされない再スタートであったと想像できました。

そして3人の子供が生まれ、子供を育て、仕事をし、地域に貢献し、米や野菜を育て、私の父が成人して実家に戻り、結婚して、私たち孫が生まれました。

私は特に可愛がられ、私自身も祖父を慕っていました。

私は15歳まで同居し、その後は年に1、2回会うということが続きました。

私自身も結婚をし、祖父の育てた米や野菜を送ってもらい、帰省するたびに、仕事のことや私自身のことを一方的に話して聞いてもらっていました。

80歳を超えた頃から、痴呆が進み、私の両親との同居が難しい状況となり、施設に入ることになりました。

そのあたりで祖母が亡くなりました。

施設に入ってからの祖父は、私のことを忘れ、帰省するたびに会いに行きましたが、私を認識してくれることはもうありませんでした。

しかし、時折見せる笑顔や言葉から、私を可愛がってくれていた祖父の面影は最後まで感じることができていました。

戦争体験からなのか、本人の気質なのかはわかりませんが、祖父は自分に厳しい面を持っていたようで、亡くなるまで、薬類は一切飲まず、焼酎も、生もの、生水は口にしなかったようです。

その厳しさは、若い頃、時折、祖母に向けられたこともあったようですが、祖父は、孫の私の前では一度も声を荒げたことがなく、口数は少なく、私から見ると、いつも穏やかな人柄に感じていました。

戦争を経験し、九州の田舎で一生を終えた祖父の人生を思うと、今の私は贅沢で、自由で豊かな生活を送り生きているのだと実感し、それは祖父が土台を築き、父が受け継いで私につながっているのだと思いました。

人の人生は多面的ですので、本人以外がとやかく言うことではありませんが、98歳、老衰、大往生の祖父を見送り、私もそのように生きてみたいと感じました。

これまでと同じように祖父の存在を感じながら、日々、生きていきたいと感じました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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